学生生活最後の冬、自分の銀行口座に100万円を振込が。
そう書かれた紙切れにサインして、就職の内定取消を承諾。
100万円ポッキリで、大学を自主留年して就職活動に再挑戦。
それで新しい前途が容易に開けてくるとは思えないが、この冬も学生に対する風当たりは厳しいようだ。
言論プラットフォーム「アゴラ」で、岡田克敏氏が述べているように、「進学率が高くなると、一部の難関校を除き、大卒の価値が下がるのは仕方のないこと」である。少なくとも、(どのような基準で判断するべきかは定かではないものの)高等教育機関としての機能を疑われるような大学が濫立している状況では、「大学生」という肩書だけをもつ者の存在は確かである。
内定取消など就職関係の問題について、学生側の視点で対応策を考えるならば、およそ次のようになる。それは、大学での学びや生活、その他各種活動の経験から得たものについて、就職活動でまっとうな評価を得られるようにするためには、学術的・人格的な資本の高度蓄積と、当該資本の活用・向上や新規資本の獲得・利活用に関する潜在能力を有することについて、それを伝えるシグナルを強化することである。
「大学には専門知識を勉強して人的資本を蓄積する機能と、受験勉強に勝ち抜いたという潜在能力を示すシグナリングの機能がある」とは、池田信夫氏の言であるが、彼はさらに続けて、「偏差値の低い大学の扱いは専門学校以下で、大学を卒業してから(大学院ではなく)専門学校へ行く学生が増えている。講義の内容も専門学校化し、特定の資格を取るための学科が増えている」と指摘が鋭い。
この点、私の実感では、専門学校以下の扱いを受けかねないのは、池田氏が指摘するような大学(と、その所属学生)に限らない。
先日、近所の店で食事をしていたところ、4人の女子学生が隣席で会話の声を弾ませていたが、「大学名というブランドを使うだけ使って、どこからでもいいから内定がほしい」という異口同音の言葉に、私はすっかり閉口してしまった。
ちなみに、彼女らが通う大学は私の出身校であり、世間からは私大の頂点と評価されている大学でもある。
大学教員になってからは当然のこと、大学院に在籍していた頃から、私は学部生の就職相談・指導を数多く経験してきたが、少なくとも、私大の頂点であり、文科系では偏差値が最も高い学部の学生であっても、大学3年の夏から1年近くも就職活動に真剣に取り組んで、ようやく内定を1社得られるかどうかが平均的な学生層である。
もちろん、人的資本もシグナルも備えた彼・彼女らであるから、複数社から次々と内定を得る学生も当然にいるが、そういう学生は明らかに少数派であって、大学名というブランドで就職活動を無難に乗り切れている人を見たことがない。
きのうのポストにも関連するが、「やるべきことさえ果たしていないにもかかわらず、誰かが助けてくれて良い思いをしようなどという甘ったれた考え」で学生生活を過ごすと、就職活動のシーズンを迎えてからあたふたしても、その結末はすでにほとんど見えているというのが現実である。実際、内定をいくつも得る学生と、ようやく1社得られるかどうかの学生との間には、マニュアル化できない暗黙知のような形で、他者の客観的評価に晒された際の差異が明確に認められるのである。
「やればできる」、「頑張れば結果はついてくる」などの表現は、他者に対する励ましの言葉としては成立するが、自己が直面する課題に関しては、必ずしも成立しないというのが冷厳たる事実。現実に即した表現に再構成するならば、「やればできる(だろうが、良い結果を得られなかったらその事実を受け止めるしかない)」であり、「頑張れば結果はついてくる(かもしれないが、頑張るのは当たり前で、他者と差別化できるだけの努力と工夫を重ねなければならない」ということになる。
結果の違いは、行動の違いも然ることながら、意識の違いに起因する。
ところで、学生側だけの問題にとどまらず、大学という組織や教員個人のあり方も自省されるべきである。それは、私も決して否定するものではない。
しかし、教員個人としてすべきこと/できることを考えたとき、自らの専攻分野に関する教育を充実させることや、学生の意識を高めるように接することは当然であるが、それ以外の事柄については、学生の進路(就職活動など)に直接・間接に貢献できるものは少ないと思う。
大学は高校までとは異なり、「昼間は皆で同じ授業、夕方はそれぞれのクラブ活動」という紋切り型の生活ではなく、学習・自己啓発の内容や取り組みかたは千差万別であり、学生一人ひとりの習熟度や人格形成に細かな目配りをすることは不可能である。
かりに、社会一般や学生の家庭が、教員個人に対してそのような貢献を強く期待しているのだとすれば、それは過剰な期待であり、誤った責任の要求だろう。

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